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「時間」は人間にとって大変重要な概念です。
しかし、なぜか個々によって「時間」という概念の捉え方が違い、曖昧な理解のまま「時間」という概念を認識しているようです。


「時間は過去から未来へ流れている」という人もいれば、「時間は未来から過去へ流れている」と感じている人もいて、人それぞれいろいろな考え方、感じ方をしているのですが、どうも科学的に誤った捉え方をしている人が多数いるように感じます。

「人それぞれ自由な捉え方をしても良い」という考え方もありますが、私は「ある水準」までは人類は皆同じように概念を共有すべきだと思っています。
この「ある水準」とは何かというと、「現代科学で明らかにされている部分まで」のことを指しています。

例えば「地球は太陽の周りを回っている」というのは誰しもが知っていることでしょう。
「地球が太陽の周りを回っている」のは現代科学で明らかになっていることで、今の時代に誰もこのことを疑っている人はいませんね。


「いや、科学が何と言おうと、私は太陽が地球の周りを回っていると感じる」と思うのは勝手ですが、そのような考えは一般的に通用しないでしょう。

ただし、科学的に明らかになっていないことなら、自由に捉えても問題ありません。

例えば「宇宙の端を超えたら過去に戻る」といったことを考える分には何の問題もないということです。
「宇宙の外側」が科学的に明らかになっていないのなら、誰も真実がわからないのだから、自由に発想してもいいのです。(もちろんその考えを強要するのは間違いですが)

我々が「地球が太陽の周りを回っている」ということを知り、その知識を前提に「自らの人生」のことを考えているのと同じように、「時間」という概念についても、科学的に明らかになっていることを知り、その知識を前提に「自らの人生」について考えるべきです。

「太陽が地球の周りを回っている」という前提で思考すれば間違った答えに行き着いてしまうように、そのような過ちを犯さないためにも、「時間」について「現代科学で明らかにされている部分まで」は理解しておく必要があるのです。

勿論、科学が未来永劫絶対的に正しいとは限りません。現在科学的に主張されているいくつかの事柄は数十年、数百年後に間違いだったと修正されていることと思います。

それを踏まえた上でも、やはり科学的に明らかになっている情報は知識として知り、それを前提に思考すべきだというのが私の考えです。

それでは、長くなりましたが「時間とは何か」について記述していきます。

時間の起源

まず始めに、人類が「時間」という概念を意識し始めた頃に遡ってみましょう。


世界最古の日時計は紀元前1500年頃に古代エジプト人によって使用されていたことがわかっています。この時点では日の出から日没まで、影ができる範囲を12個に分割して時間を計っていたようです。ですが、「時間」という概念が前頭前野レベルで意識され始めたのはもっと前のことだと考えられます。現段階で見つかっている最古の農業の痕跡は23,000年ほど前のものです。

その頃から「種を蒔いて待っていればいつか食べられるようになる」という思考ができるようになり、作物の成長時間を考えながら生きていたのです。

つまり農耕を始めた頃、既に「時間」という概念は人類にとって重要な概念の一つになっていたと考えられます。


農耕は狩猟よりも効率よく「食う」ために人類が作り出した手法です。「目の前にある食べ物を狩猟採集して食う」という方法から、「計画的に食物を育てて食べる」という方法に変わり、計画性のある思考が身についた結果、「時間」という概念は人間が生活するにあたって切っても切り離せないものとなっていきます。

現代社会を見てみると、社会が時間に合わせて1分1秒単位で動き、あらゆる人工物がコンマ数秒単位で正確に稼働しています。


単に計画的に「食う」手段として「時間」という概念を用いていた昔の時代と、社会そのものが「時間」に合わせて動いている時代とでは、また少し違った時間感覚だったはずです。


人類史を見ると、「時間」という概念の捉え方が変化していることがよくわかります。社会が変われば今後も「時間」という概念の捉え方が変化していくことでしょう。


今を生きる現代人が「時間」という概念をどう捉えるべきか?という私の意見は後ほど記述いたします。まずは、「時間」という概念に対して科学的な立場から見ていくことにします。

時間の最小単位とは?時間の感じ方(体感)について。

「時間」にはこれ以上分けられない最小単位があります。昔から仏教では「 刹那 セツナ」という時間の最小単位を表す概念がありました。現代では刹那という概念の存在は科学的に証明されており、「プランク時間」という名で呼ばれ、その長さは5.391×10の-44乗[秒]になっています。

1899年にマックス・プランクによって、量子力学を特徴付ける物理定数である「プランク定数※1」が提唱されました。「プランク時間」や長さの最小単位である「プランク長」などはマックス・プランクが提唱した「プランク単位系※2」における基本単位のことです。プランク時間は、「プランク長に等しい距離を真空中における光速度で通過するのに必要な時間」と定義されています。これが現代科学における「時間の最小単位」の定義です。(最小単位とは、物理学における位相空間※3においての最小単位のこと。量子カオス系においてはそれ以下のミクロ構造が存在することがわかっている。)

※1.プランク定数:光の持つエネルギーと振動数の比例関係を表す比例定数のこと。
※2.プランク単位系:マックス・プランクによって提唱された自然単位系のこと。自然単位系とは、普遍的な物理定数(値が変化しない物理量)のみに基づいて定義される単位系のこと。
※3.物理学における位相空間:力学系の位置と運動量を座標(直行軸)とする空間のこと。量子力学では、不確定性原理のため位置と運動量を同時に決めることはできないので量子の状態は位相空間上の点の代わりに測定値の確率分布を与える波動関数で表現されることになる。つまり、プランク定数hに基づいて定義される基本プランク単位は、物理学における位相空間において観測可能な最小単位であるということ。

まず、「時間」と言う概念に最小単位があるということに注目していただきたいです。最小単位があるということは「時間は離散的で非連続である」といえます。「時間」はプランク時間ごとに生まれては消えを繰り返しているのであって、「流れている」のではなく「刻んでいる」と考えるのが科学的に正しいといえます。

しばしばコーチングでは、「時間は未来から過去へ流れている」と表現することがありますが、それは「時間は過去から未来へ流れている」と思い込んでいる人に対して、固定観念を外すための方便として使われています。凝り固まった固定観念を外すには「時間は未来から過去へ流れている」と教えるのは有効的な手段ですが、「時間」には「プランク時間」という最少単位が有るということを知らずに「時間は流れている」と思ってしまうのはよく有りません。

川の流れを例に時間を考えて見ましょう。
「川は水分子の集まりだ」と知っている上で、「川が流れている」と考えるのは問題ないのですが、川を水分子の集まりだと知らずに一つの存在として「川は流れている」と考えるのには問題があります。時間も同じです。「時間はプランク時間の集まりだ」ということを知らずに「時間は流れている」と考えるのは問題があるということです。

川が川上から川下へ流れる時、水分子は川上から川下へ落下しています。しかし、それは偏った見方であって、視点が不足しています。水分子が川下に向かって落下している時、同時に、川下(地球)も水分子へ向かって落下しているのです。どちらかを固定して一方だけが動いていると考えるのではなく、水分子と地球はお互いに引き合って動いていると考えなくてはいけません。

時間も同様で、過去を固定するのか未来を固定するのかで、どちらが動いているのかが変わります。過去もしくは現在(現在は一瞬で過去になるため、現在は過去に含まれる。)を固定すれば「未来が過去に近づいてくる(過去が先にあって、時が経って未来が訪れる。つまり過去から未来に時間が流れる。)」ように感じます。逆に未来を固定すれば「過去が未来に近づいてくる(未来が先にあって、時が経って過去になる。つまり未来から過去に時間が流れる。)」ように感じます。

究極的には、そもそも時間は非連続なのだからどちらも間違いなのですが、体感として感じる分には「どっちでもいい」ということです。「どっちが正しいか?」と二元論的に考えるのではなく、「視点を変えればどちらとも言える」と相対的に思考できるようになることが重要です。

時間の感じ方(体感)については上記の通りです。次に「次に時間とは何か?」について記述して行きます。

時間と空間は同じもの?四元位置における時間とは何か?

アインシュタインが「特殊相対性理論」で空間と時間は平等であるという考えの元に、空間(x,y,z)と時間(ct)を合わせて、四元位置(x,y,z,ct)というものを提唱しました。これを基本として現れる各物理量を「四元物理量」と言います。

この考えから、「時間と空間を平等に扱うことができる」と考えることができます。(平等に扱うといっても、空間と時間が同じものであるということではありません。)時間と空間を平等に扱うとはどういうことか、直感的に理解できるよう以下に記述いたします。

時間と空間を平等に扱うことができる」とはどういうことかというと、「四元位置における時間は座標で表現できる」ということです。

もう少し説明が必要かと思います。
まず速度とは何か?を考えてみましょう。速度は[距離/時間]で表すことができますが、座標を用いることで相対的に速度を表現することもできます。ここで問題ですが、下の図を見て直感的に赤丸と青丸のどちらが早いかを考えみてください。


おそらく、ほとんどの人が「赤丸より青丸の方が早く動いている」と思ったのではないでしょうか?なぜそう思うかというと、「黒丸は一定の速度で進んでいる」と仮定しているからです。感覚的に「黒丸の移動距離が5だとしたら、赤丸は3だけ動いていて青丸は9だけ動いている。黒丸の速度を基準(=1)とすると赤丸の速度は0.6(=3/5)、青丸の速度は1.8(=9/5)だ。」ということを理解しているということです。

つまり、この空間座標における速度とは、「黒丸の移動距離を基準として、相対的にどれだけの距離を移動したかを表した比」なのです。

ここで時間の起源の話に戻ってみましょう。紀元前1500年頃に古代エジプト人は、日の出から日没まで、影ができる範囲を12個に分割して時間を計っていました。古代エジプト人にとっての黒丸とは何でしょうか?

それは太陽です。

速度を計測したいと思った「対象の動き」と「太陽の動き(影の動き)」を比較して速度を導いていました。時間を測る基準が太陽といった天体の周期的運動から、現在では、セシウム133原子の放射周期※4へと変化しましたが、なんらかの動きを基準に「時間」及び「速度」を測るという方法は昔も今も変わりません。


機械式腕時計が作られた時に、人工的に「時間」が出来上がり、人類はもともとあった「時間」という概念がよくわからなくなってしまいました。時間という概念が絶対的な基準として存在し、時間を基準に思考する癖がつき過ぎてしまったといえます。本来「時間」は「ある対象の動きを基準として、別の対象の速度を計測するために人類が生み出した概念であった」ということを忘れてはいけません。

※4.セシウム133原子の放射周期:「1秒はセシウム133原子 (133Cs) の基底状態にある二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の 9192631770(約100億)周期にかかる時間」と定義されている。

時折「時間と空間は同じもの」と表現される所以は、時間を四元位置で表現することができたからです。本当のところ時間が何なのかはわかりません。ただ、人間が時間を感じられるのは四元位置における相対的な座標変化があるからです。空間に一切の変化が感じられなければ、観察者にとってその空間に時間は存在しない(時間という軸(次元)がない)のと同じです。

この宇宙は不変の真理で成り立っています。同じ位置に止まるということはあり得ません。存在するものは必ず動き変化し続けます。我々にとっての時間とは変化を測る基準として生みだされた尺度にすぎません。

生命にとっての時間の重要性

生命は生きることを目的に様々な進化を遂げてきました。アメーバのような原始的生物が人間のような高次的生物に進化したのは「時間」という概念を上手に使いこなしてきた結果と言えます。


最初は「今この瞬間の危険から避けるという選択」を行って偶発的に生き残り進化してきたと考えられます。進化を続けて生物として複雑化していった結果、「今この瞬間危険と思えることをあえて選ぶ」といった先を見越した選択もできるようになりました。つまりこの生物は現在よりも未来を重要視して選択を行ったということです。今この瞬間の安全よりも未来の安全を選択したのです。

生物は今この瞬間危険に思えることでも「それを選択することで将来的な安全につながる」と感じた時は、ドーパミンのような快楽物質を発生させるようになりました。快楽によって今この瞬間の恐怖を克服し、種の保存というレベルでより正しい選択ができるようになったのです。

そして人間はさらに進化しました。前頭前野の発達によって仮想空間での思考が可能になり、仮想空間上で他の生物が恐怖や欲望による選択を行うことを予測し、その予測をもとに様々な動物を捕食することができるようになりました。

さらに人間同士の争いによって、仮想空間上で互いの選択を何重にも読み合うようになりました。将棋の棋士が何十手先の互いの駒の動きを予想した上で今この瞬間の一手を決めるように、あらゆる競争の場で人間は仮想空間上で先読みをして今この瞬間の選択を行っています。「より遠くの未来を正確に先読みし相手の裏をかくことできた人」が戦争で勝利し、スポーツやビジネスなどあらゆるシーンで活躍してきました。

そして現在、未だにより遠くの未来を正確に先読みできた人が大きな権力を握っています。長い生物同士の競争が終わりを迎える日まで、未来の先読みは無限に続くことでしょう。これから高性能な先読みができる人工知能が作られ、それを使いこなす人間同士の戦いになるとさらに未来の先読みが困難になるかと思います。

しかしながら、競争社会が縮小していく兆しをわずかながらに感じられます。「競争ではなく共生によって生命は命を繋いでいる」という説が多く見受けられるようになり、また、社会も多様性を重視するような風潮になりつつあります。


今後の人類が競争ではなく共生を重要視するようになった時、「時間」という概念は競争社会で言う所の「時間」とは全く異なる意味を持つようになると考えられます。

結論。現代人は「時間」という概念をどう捉えるべきか?

上記を踏まえて、以下に時間に対する個人的な考えを記述いたします。以下に記述することは「私はこういう考えで時間という概念を捉え思考し、行動している。」といったあくまでも個人的な主張に過ぎないということを初めに明記しておきます。

「時間」について色々調べ、考察して出た結論はこれです。


「時間は生命が生み出した便利な道具である」


「時間」という概念が意識され使い始められた当初は文字通り「ただの道具」でした。

農耕で食うために「時間」という概念を活用することから始まり、様々な目的を達成するための手段として使われてきました。また、生物間および人間同士の競争では「未来をいかに先読みできるか」が勝敗を決め、「時間」を制した者が快適な環境で生きることができました。その一方で現代人はしばしば「時間に追われる」といった負の感情を持ち、「時間」によって疲弊し、苦しめられているようにも感じます。人間の道具として使われていた「時間」が、いつの間にか一人歩きし始め、時間に合わせて社会が動くようになったことが原因でしょう。


時間に合わせて動く社会に、さらに人間が合わせて行動することで人間は間接的に「時間」の奴隷となってしまっているのです。

本来「時間」から自由であるはずの人間が、結果的に「時間」に縛られて生きてしまっています。そもそも「時間に縛られている」という感覚を持つこと自体がおかしいのですが、現代人は「時間に縛られている」と考え、「時間からの自由」を欲します。

「時間からの自由」を何か特別な人だけが持っている特権と考えていると、自ら生み出した「時間」という概念に縛られることになります。我々は最初から時間に縛られている訳ではありません。「時間からの自由」はすでに誰もが手にしています。そして我々は「時間を道具として活用する自由」を持っています。

「時間に縛られている」という感覚を持ってしまっている人は「時間」ではなく「別の何か」に縛られています。まずは、「自分を縛っているのは何か?」これを「正しく見る」ことが大事です。

そもそも「自由」とは何か?を考える必要があります。


「時間的な自由」や「金銭的な自由」を考えた時、時間やお金が満たされた状態をイメージしてしまいますが、実際はその逆で、自由とは何もない状態のことです。例えば「時間やお金が満たされていて労働する必要がない」といった状態は、「時間的・金銭的自由」を得た状態ではありません。単に「労働をする自由、労働をしない自由」を得ている状態と言えます。

自由とは執着することによって失うものです。別の言い方をすれば「自由とは執着しない心のこと」です。「時間(お金)なんてあってもなくてもどっちでも良い」そう思えている時、「時間(お金)」という概念から自由になっているのです。時間に執着すれば時間に縛られ、お金に執着すればお金に縛られます。会社や人間関係に執着すれば会社や人間関係にも縛られます。執着しないことで人間は自由になることができるのです。

だからと言って、「自由を得るためにできる限り執着を捨てましょう」というわけではありません。全ての執着(生きる執着も含む)を捨ててしまえば、人は死んでしまいます。人は執着せずに生きることはできません。

あらゆることに言えることですが、物事を二元論的に捉えてしまうのは良くありません。何事もバランスが大事なのです。執着し過ぎていると感じたら、少し抑えて、良い塩梅に調節しましょうということです。

自転車や車は人を運ぶ便利な道具ですが、それで階段を登ろうとするのは間違いです。道具は必要のないときに使う必要はありません。「時間」も自転車や車と同じ道具です。「時間」は人間の目的に応じて利用される道具にすぎません。それは競争社会が共生社会へと変化したとしても言えることではないでしょうか。


「「時間はただの道具」と考えた上で、状況に応じて利用していく」というのが、私の「時間」という概念に対する考えです。